春を感じる時

 今年も春がやってきた。というよりも今年も春にめぐり会えた。こう思ったほうがいい。なぜなら春の到来は約束されているけれども、それにめぐり会う自分の方はあんまり約束されていないからだ。3月の暖かな日差しを浴びながら、これはすばらしい幸運と受け止めた。
  植物にも季節の兆しがあらわれている。あちらこちらで梅や椿の開花が見られるようになった。

 日本には四季があると教えられた。瀬戸内海をのぞむ町、首都圏の郊外、北海道の日本外側の3か所に住んだ経験からあらためて考え直してみた。日本には季節はふたつ、夏と冬がある。冬から夏へ変わっていく途中で、春の時間を通過する。同じように、夏から冬に変わっていく途中、秋の時間を通過する。二交代と言うと、まるで病院や工場のようだけれども、季節もまた二交代だ。
  ただ瀬戸内や首都圏では、通過点にすぎない春と秋の時間がかなり長いので、四季といってもかまわない。

 京都盆地には椿やさざんかが多い。しばらく住み始めてからこのことを発見した。生け垣や庭木によく使われている。たぶん価格もさほど高価ではないのだろう。ただし、種類が多いので、品種によっては高価なものもあるのかもしれない。ちょうど今、さざんかが盛りで、椿も満開が遠くない。

 どこかに空地を見つけたら、ピクニック用のシートを敷いて、寝ころんでみたい。ぼんやりと空を見上げたり、うたた寝をしてみたい。
  もし常夏の国と常春の国の二つがあるのなら、常春の国に住みつきたい。

やる気

 やる気のあるなしが気にならないのが実はいちばんいい状態だ。やる気のあるなしを自分の胸に手を当てて、毎日、あるとかないとか確かめるのは不便なことだ。電車なら最初に切符を見せないと乗せてくれない。しかし、自分自身のことだから、やる気の切符はいらない。やる気があろうとなかろうと、とにかく、やり始めればいい。やり始めたら、だんだんやる気がわいてくる。やがてやる気が燃えあがってくる。自分自身の中で燃えているやる気を感じる瞬間が訪れる。その時が来るまで、やり続けるだけだ。

 やる気を物体にたとえれば、どんな物体だろうか? 樹木のような形をしていて、大きく枝を空に向けているのだろうか? あるいは海深くを泳ぐマグロのような流線型をしているのだろうか? 新幹線のような形、あるいは、宇宙ロケットのような形をしているだろうか?

 それは自分の心に中にある大切な部分である。毎日、励ましの言葉、ねぎらいの言葉、いたわりの言葉、ほめ言葉をかけてやると育ってくる。
それはとてもせんさいな心の働きである。育ち始めた若葉のように、風雨からも直射日光からも守ってやらないとならない。
  それは待っていても、やって来ない。
  それはときどき休みたがる。
  そのときは休ませてあげよう。