道案内

 土曜日の昼下がり。診療所の仕事を終えた帰宅の途中、観光客らしい数人が地図を持って道のわきに立っている。お節介をして行先を聞いてみると、「竹○」という湯豆腐の店だと言う。道順を教えてあげた。
 しばらくして、よく似た名前の「竹△」という店を教えていたことに気づいた。しかしすでに手遅れだった。何年も以前のこと、修学旅行らしい高校生の一群から「竹○はどこか?」ときかれたことを思い出した。知らないと答えるしかなかった。あのときは台風が近づき、風雨が激しい日だった。そんなことまで記憶がよみがえった。
 その「竹○」は地図や観光案内にのっている店らしい。嵐山のにぎやかな中心部からかなり離れたところにある。そのため、地元民のあいだではあまり聞かない。

嵐山にしても嵯峨にしても、地図を片手に観光客が歩いている。標識がないからだとか、道が縦横に整然と通っていないからだとか、理由が語られるけれども、知らない土地というのはもともとわかりにくいものだ。
新聞やテレビの報道で「ワシントンで」「北京で」と聞いていて、何となく分かった気がしていても、現地に行けば、どこがどうなっているのか何も分からないのではないか? 少なくとも自分に関する限り、地図を広げて半日でもたたずんでいないと一歩も歩けないような気がする。
 空間を理解することは実にむずかしいことなのだと思う。

 高さ5センチメートルくらいの苗でもらったムクゲを植えて2年がすぎた。夏の花なのに秋に花をつけた。香りはあまりないようだ。