夏至も近づく

春は桜、秋は紅葉の嵐山に住んでいても、通りすがりに眺めるだけの、○○暇なし生活で、それでも一瞬の桜、紅葉に満足の心地がして、ゆっくりと眺めたいものだとはこれっぽっちも思わない。それよりは誰にも省みられない路傍の一本の桜、楓を一年のあいだ、しみじみと見つめていたい。ゴールデン・ウィークが終わり、またまた世間に活気が戻る頃、嵐山の新緑は日ごとに濃くなる。雨に打たれては緑が深くなり、晴れては日差しに葉っぱが照り映える。夕方遅くまで空に明るみが残り、心にしみこむような光景だ。その明るみに明日への希望を託す。今日一日の労苦にめげてしまわないように、誰かがこの残照を見せてくれているのだ。なぜ夏至にお祭りをしないのだろう。きっと梅雨のさなかだからだ。誰も祝わないけれど、夏至こそ一年のハイライト、その頂点に向かって、日差しはきょうも伸びていく。