誕生日

ある年齢になると、誕生日を迎えたことをなげいてみせるのが、当節の風習らしい。この世からあの世へと移る時期があらかじめ決められていると仮定してみよう。ひとつ年齢を加えるごとに、終点までの時間が短くなるのだから、なげきたくなるのは無理もない。
あの芭蕉だって、「門松は冥土の旅の一里塚」と詠んでいる。  
あの晩も、「明日はきっといい日になる」と信じて、たくさんの人が眠りについた。
明け方、地面が揺れて、たくさんの人々が亡くなった。そう、明日の命は約束されていないのだった。  
寿命は誰からも約束されていない。  
誕生日の夜、床の中で、母を思い出しながら、そして母がこの世を去った日を思い出しながら、またひとつ年齢を重ねられたことを、ひとり喜んだ。

(2004年9月28日擱筆) 

8月の言葉

 ある日ある時に、ある人の語った言葉が印象に残っていつまでもその言葉をかみしめることがある。きっと語った人はなんの意図もなく、ただ話しただけなのに、聞いていた自分の胸の中で生きている言葉がある。またふと手にした本の中のひとくさりを別の時間に知らず知らずのうちに、はんすうしていることがある。そんな言葉を書いてみたい。

 「すいかを腹いっぱい食べてみたい」
 こんなせりふは初めて聞いた。そしてびっくりした。びっくりした理由の第一は自分自身がそんなことを思ったことがないからである。理由の第二は、すいかを腹いっぱい食べてみるのはきっと満ち足りた経験になるにちがいないと思ったからである。腹いっぱい食べてみたい。その対象はある限られた種類の食物で、ふつう、すいかはその対象にはならないような気がする。「すしを腹いっぱい食べてみたい」という話なら誰かから聞いたことがある。しかし、ことスイカにかけては、腹いっぱい食べたい食物のの対象から最初から除外されているように思っていた。こんな理由でとても印象的なせりふだった。
 そのせいで、今年は意識してすいかを食べるようにした。毎日せっせとスーパーへ買いに行った。コンビニは残念ながら扱っていない。これまでに過ごした夏の日々を時に思い出すこともあった。ロマンチックな夏の思い出ではなくて、茶の間で食べたり野外で食べたりしたありふれた風景を思い浮かべた。
 このせりふは言ったのは誰か。少しだけ明かしておきたい。精神病院に30年間入院し、31年目の2003年に退院した人である。

 お空の天使
 流産や死産のために亡くなった胎児、産まれてすぐになくなった赤ちゃんのことをお空の天使と言う。ある人が名づけた呼び名なので、広く語られる言葉にはまだなっていないと思う。この言葉を聞いて、また本の中の活字で読んで私は考えた。生きて生まれて、そして今も生きているこどものことをいったい何と呼べばいいのだろう。地上に降りた天使では長すぎるので、地上の天使、と短く呼ぶのがいいようだ。
 屋外に5分といられないほどの暑さの、8月のある午後、午前の仕事を終えて自宅に帰りついた。狭い玄関のたたきに小学生の靴がたくさん散乱していた。我が家のこどものくつと、その友だちの靴だった。活気あふれる話し声が道にまでひびいていた。この子たちはみな、それぞれの両親にとっては地上の天使なんだろうな。ただし地上の天使は靴を脱いだらそろえるということをまだ知らないようだ。自分たちおとなはいったい何なのだろうか。元地上の天使なんだろうか。

 さるすべり
 夏の間中、さるすべりの花が咲いていた。去年までは、それを見てなんとも思わなかった。ただそこに咲いている花。ただそれだけのことだった。8月、どういうわけなのか、その花をきれいに感じた。こんなことが自分には多いような気がする。ただそれだけのことと思うだけで、そのきれいさをしみじみ味わうようなことが少ないようだ。なんだか、とても損をしている気になってくる。見る物聞く物みんなすてき、というような経験は自分にはできないのかと思う。