ある産科医のフランス旅行

長年勤め上げた病院を退職したある産科医の話である。

生まれつき体が丈夫で睡眠不足が続いたところで仮眠すればすみやかに回復し、元気はつらつ冗談を言いながら再び仕事に戻るD先生は町でも評判の産科医だった。無病息災、65歳でもって副院長を退職することになった。記念に夫婦で憧れのフランス旅行に行くことにした。
前もってフランス語会話の教室に通い、ひまな時間にはテープを聴き、万全の準備をしておいて、航空機に乗り込んだ。

時差にもまったくこたえず着いたとたんに生気がみなぎるようだったと同行のD夫人が後に語った。宿泊先のホテルに到着すると、フロントで「ボニュ」と言われて、D先生も「ボニュ」と答えた。

部屋に入り着替えもすませて、D先生は「オレの顔をみて母乳と言うんだけれど、ヘンだな」と言う。D夫人も「私も母乳と言われたのよ」と二人で首を傾げた。

どこのホテルに泊まっても「母乳」と言われるので不思議だなと思いながら、それでも念願のフランス見物に心うばわれて、ついでに料理に舌も奪われるほどで、満足して帰途に着いた。

迎えに来ていた娘さんにD先生は「あちこちのホテルのフロントで母乳と言われた」と話したら、

「お父さん、それはね、ボンニュイって言っていたのよ」と笑いながら教えられた。