おしどり夫婦

仲のいい夫婦をおしどり夫婦と言うように、おしどりのカップルはとても仲がいい。一度カップルになると、他に異性には目もくれず、一生添いとげるそうだ。人も彼らのように過ごせれば、どんなにいいことだろうか。しかし人間とおしどりはかなり違うので、おしどりのように人は生きることがなかなかできない。そもそもおしどりのように生きることには無理があるのではないか。人がもしおしどりの性質を受け継いでいたら、自分たちカップル以外の人には目もくれない性質を持っていたら、社会というものが生まれなかったのではないだろうか。ウロウロキョロキョロがあるから人は集まり社会を生み出したのではないのか。といっても、どんなことにも中庸が大切なので、おしどりらしさを多少は保つことも、また社会を維持していくのに必要なのだろう。

夏至も近づく

春は桜、秋は紅葉の嵐山に住んでいても、通りすがりに眺めるだけの、○○暇なし生活で、それでも一瞬の桜、紅葉に満足の心地がして、ゆっくりと眺めたいものだとはこれっぽっちも思わない。それよりは誰にも省みられない路傍の一本の桜、楓を一年のあいだ、しみじみと見つめていたい。ゴールデン・ウィークが終わり、またまた世間に活気が戻る頃、嵐山の新緑は日ごとに濃くなる。雨に打たれては緑が深くなり、晴れては日差しに葉っぱが照り映える。夕方遅くまで空に明るみが残り、心にしみこむような光景だ。その明るみに明日への希望を託す。今日一日の労苦にめげてしまわないように、誰かがこの残照を見せてくれているのだ。なぜ夏至にお祭りをしないのだろう。きっと梅雨のさなかだからだ。誰も祝わないけれど、夏至こそ一年のハイライト、その頂点に向かって、日差しはきょうも伸びていく。

雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ

宮沢賢治のあまりにも有名な詩。いつも読み流し、あるいは聞き流していたのだが、にわかに気になり始めた。雨にも負けず風にも負けずとは、いったいどういうことなんだろう。人間であれば、雨の日にはかさをさす、風の日には外出しないなど、対策はあるわけで、雨風に勝つだの負けるだの考えはしないはずだ。とすると、これは農作物、たとえば、稲や小麦のことを歌ったものにちがいない。田畑に植えられた稲、麦、野菜はその場所で風雨に耐えて育ち、実る時をひたすら待つ。そういう農作物のあり方に敬意をこめた歌ではないだろうか。言い換えれば、この詩は収穫祈願の歌である、というのが私の発見である。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
と続くのだが、これは農作物を人と見立てて、描写したものと考えると納得がいく。ここから先は想像力がそれ自体の力ではばたく。いずれにしても賢治は農作物と自分を同一視していたようだ。
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ