割り切ること、割り切れないこと

ときどきはるかに過ぎ去った日々の思い出がよみがえることがある。誰にも同じ経験があることだから、まったく特殊なことではないだろう。けれども、思い出す内容はその人の特有のものであろう。とすると、思い出の内容はたいへん特殊なわけである。
 この季節に何度もよみがえる思い出がある。
中学生になったばかりの5月のある日のこと、授業と授業のあいだの休み時間に、二人の男の子がけんかを始めた。理由はわからなかった。二人とも黒板のそばにおいてあった黒板消しを右手にもって、相手の学生服のいたるところをなぐりつけた。黒い学生服のすみずみまでが白くなってしまうまでなぐり合いをしていた。次の授業を知らせるベルが鳴り続けているのにもかまわず、続けた。教室に入ってきた先生にとめられて、やっと上気した顔が静まっていった。
 離れた席から私は見物していたのだった。黒と白、そして二人の上気した赤い頬があざやかな記憶になって残った。なぜ忘れ去らないのだろうか?
 自分も誰かとあんな喧嘩をしたかったのだろうか?
喧嘩をした彼らの燃え立つような闘争心に嫉妬したのだろうか?

後日談がある。この二人のうちのF君はとても勉強ができる少年だった。しかしその心にまで私は思い至らなかった。作文にはこう書いていた。
「僕は勉強がきらいだ。しかし、勉強はするのだ」と。
嫌いだからしない、という論理を彼は否定していたのだった。好きだからするという論理からも彼はもしかしたら自由だったのかもしれない。まことに少年らしからぬみごとな割り切り方で、私は今もそういうF君を思い出す。

Build , built , built

 近所に住む小学生 6 年生の S ちゃんが回覧板を持ってある日の夕方、我が家の玄関にやってきた。人見知りをしない明朗な性格の S ちゃんは大きな目をした少女である。その大きな目をキラキラ輝かせながら、私にこんなことをたずねてきた。
「小父ちゃん、 built って何よ。私、英語を習っているけれど、 built  って知らないのよ」
「それはね、 build  の過去形と過去分詞なんだよ」
と答えると、
S ちゃんは大きな目をますます大きく見開いて、後ろに倒れんばかりにのけぞって、
「小父ちゃん、英語知ってたの!? どこで習ったの?」
と不思議そうにたずねる。
  どうやら大人は英語を知らないものだと思いこんでいるようだ。それに引き換え、英語を勉強している自分をさぞや誇らしく思っていることがうかがえた。
  日本の学校では、中学から全員が英語を勉強してきたことを知らないのだった。確かにふだん、当たり前のように英語を使う生活をしているわけではないから、 S ちゃんのように思うのも無理はない。
  「バーイ」と長く音を伸ばして、 S ちゃんは元気よく帰っていった。空は夕焼けになりかけていた。空はなぜ sky というのだろう? そんな疑問なんかどこかへ飛んでいってしまうほど、真っ赤な太陽が山際に沈む前の輝きを放っていた。