柑橘(2018年6月18日)

柑橘と書いて

かんきつと読めない人が多い

忘れられた漢字の多いこと

みかんは蜜柑

橘はたちばなと読んでもらえないだろう

読めても書いてはもらえないだろうな

雛人形の飾りに使われ

左近の桜 右近の橘

 

冬のみかんから始まり

伊予かん ネーブル

清見オレンジ

河内晩柑

夏みかんへ

一年中絶えることのない柑橘類

一個の柑橘を半個に割り

朝の食卓のはじまり

 

五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

古今和歌集の頃と変わらず

みかんの花の香りは今も

人をひきつける

 

伊勢路 はるか(2018年2月14日)

さば街道よりは

高級そうなので

伊勢路を旅することにした

 

鯖には申し訳ないが

伊勢海老の方が上等じゃないか

 

乗り物酔いする身としては

山陰線の横揺れはたまったもんじゃない

伊勢路の近鉄特急は快適にひた走る

 

というわけで

雨の翌日

冬の日に 雪がちらつくそんな日に

伊勢詣でとあいなった

念じることはただひとつ

ただひとつだけ念じることがあったのだ

 

どれほどの時間がたったというのだろう

5歳の自分がその幹にだきついた大木は

どこにあるのだろう

5歳の自分はどこかに行ってしまい

そのお社の

その簡素さが目にしみた

歩くことは生きること(2018年2月14日)

クルマに乗ろうと

運転免許をとった

しかし

クルマを持てずに

紙運転者になっていた

 

時はすぎて

いつのまにか

クルマを運転するようになっていた

 

いつの間にか

自分の車を持ち

日が昇り日が沈み

花が咲き花が枯れるように

玄関を出ると

足はひとりでに

クルマに向かうのだった

 

クルマに乗ることは

生きること

しかし

人が生きるとは

自分の足で歩くこと

両手で荷物を運ぶこと

 

クルマを飛ばすようには

生きられないんだよ

誰が知ろうか(2017年11月1日)

それは私に

吐く息にも

吸う息にも

つきまとい

かたときもそばを離れることがない

この私の悲しみは

誰にもわかるまい

 

けれど

誰にもわかってもらえないことを

私は悲しまないのだ

それは私の大切なものだから

誰にも知られず

この悲しみとともに

生きていこうと思う

うつむく君に(2017年10月28日)

さっきから椅子に座ったり

立ち上がって歩いたり

するとかなしくなってきた

うつむいみたら

足が見えていっそう

かなしくなってきた

この足はどこへも歩いていけないのだ

 

今度は上を向いてみた

天井が見えるだけ

おもしろくもないし

ますますかなしくなってきた

 

上を向いて歩こう

だなんて

かなしくて かなしくて

今のわたしにはできっこない

 

足元に飼いウサギがまとわりつくので

しゃがんで背をなでてやった

ふうわりとやわらかで

わたしの心がなでられているみたい