京都の嵯峨に落柿舎はある。松尾芭蕉の弟子の去来という人の住まいと伝えられている。元々は2キロほど南の桂川べりに建っていた。川の増水があれば浸水していまうのを避けるために内陸部に移転した。移転した先が現在地だ。三畳、四畳半、台所、風呂、便所。こじんまりとまとまっていて、持ち物の少ない江戸の俳句師にはぴったりの住まいであっただろう。
今の感覚で言えば狭い住まいだけれども、家の周囲には庭や植え込みがある。そのため家全体としては決して狭い印象を受けない。
1月24日から毎朝雪がふった。落柿舎のかやぶき屋根に雪がふりつもった。昼間には日が照ればあとかたもなく融けてしまうのだった。
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朝霧
年末になった。冬らしい寒さが続く。空は青く晴れて、朝霧が川にかかった。霧が立ち込めた川面もすぐに元通りに戻る。JR山陽本線に朝霧駅がある。明石駅のひとつ東側の駅だ。海辺なのでどこに霧が立つのかわからないけれど。
赤と緑と
赤と緑は植物にとっては近い色だ。カエデは緑から赤に変わる。緑の葉も開き始めのときは赤い色をしているので、赤から緑へ、そして緑から赤へと変化していく。
朝の杉
木には樹形といって、木の形がある。当たり前だけれど。あらためて樹形を見るようになった。桜やカエデは自由形というか、その木、その木のかっこうをしている。反対に杉はほとんど皆、同じような先のとがった形をしている。雨傘みたいといえばいいだろうか。左右が対象になっているので、美しい。クリスマスツリーに使われるもみの木も同じ形をしている。
空を背景にした時、杉はとても美しい。
紅葉の向こうの朝日
寒さ予報の出た朝だったけれど、風もなく、カエデの枝も葉も揺れずに、朝日が昇っていく。逆光で暗くなってしまった。実際はもっと明るい景色だった。嵐山観光の頂点がようやく過ぎていく。山に静けさが戻るまであとしばらくの時間がある。
広島 原爆ドーム
今朝は近くの寺から8時15分頃に鐘をつく音が聞こえてきた。夕焼けのドームを今年5月に写した。
会話の基本はイエスバット
会話の基本はしりとりである。小学生がする尻取りが大人の会話の基本になる。イエスとまず受けて、その後、バットと続ける。確かにとまず受けて、しかしと続ける。
「それはそうだけど、こうなんじゃないの」
「きみがそう思うのは一理あるけれど、僕はこうおもんだけどなあ」
このような尻取りの流れがあれば、会話は円滑に進む。円滑にというのはお互いの心をぐさりと射すことなくという意味だ。
尻取りをせずに、いきなりバットで始めるとたいてい話はこじれてしまう。
酪とラクト
酪と書いて「らく」と読む。意味は牛乳のことだ。酪農と言えば、乳牛を飼っている農家のことである。他方、英語圏では牛乳はミルクの他に、ラクトとも言う。Lacto と書く。
ここで気づくことがある。漢字圏の酪と英語圏のラクトとが元々は同じ根っこの言葉だったんだと。もっともっと世界が素朴だったころ、牛乳をらくといい、またラクトと言っていたわけだ。
今、牛乳と言い慣わしているのは、いつの頃からか、酪という言葉がすたれて、描写しただけの言葉として牛乳と言い始めたからだろうか。調べて見えて知ったのは、酪とは仏教でいう五味のひとつだそうだ。
自転車
公園のモミジの木の下で自転車をとめた。すぐにタイヤの空気がぬけてしまう。そのたびに駅近くの貸自転車さんへ行き、空気を入れる。診療所のあたりは平地なので自転車は重宝している。
黄葉
雨降りの翌日晴れると、イチョウの木の幹についているコケがひときわ緑に光る。
黄葉と書くのは万葉集のころはふつうだと新聞記事で読んだ。京都新聞11月24日の漢語歳時記の中で、こう書かれていた。黄葉に半分ほどなりかけているイチョウを写真に写した。実物のきれいさには及ばない。