上手と下手と(2019年7月21日)

じょうずにしないとならない

こどものころから
言われ続けたせいだろうか
じょうずにできないことを
いつしか避けて避けてくらすことが
習慣となってしまった

へたでもいいじゃないか
やってみればいい
それだけのこと

こんなシンプルなことに気づくには
遅すぎたのだろうか?
そんなことはないよね。

夏の京都(2019年7月15日)

楓の葉っぱはまだ新緑のみずみずしさを
保っている
地面を見ると苔が雨上がりにはあざやかな
緑色に変わる

もう三月もたてば、楓は葉を赤く染める
その正確さはコンピュータ制御のようだ

赤く染まった葉が散ると、枝のかたちが
あらわになる
空が広くなる

辞書(2019年5月19日)

なじみの喫茶店
何もしないでぼんやりと
しばしの時間

シニアの会話が聞こえてくる
「英語の辞書はやっぱり紙の辞書がいいなあ」
「電子辞書はめんどうくさいよ」
と片方が言うと
「紙の辞書ならついでに他の単語を見たりするもんな」
ともう片方が言う

ここから話が飛んで
「辞書は古本屋で売れないらしいよ」
会話がとぎれ、シニアの二人は去って行った

自分の本棚を思い出す
使いこんだ辞書の黒ずんだページ
買ってくれた両親を思い出した

最初で最後のラブレター(2019年3月17日)

夜になると
「やくざが殺しに来る」とさわぐ男がいた
「そんな人が家に来るわけはないでしょ。
あなたの言ってることは妄想っていうの」と
妻は答える

男は夜ごと夜ごとに同じせりふを言い
妻はほとほと疲れてしまった
ある晩
妻は思いついてこう云った
「もしやくざが家に来たら
わたしがあなたを守ってあげる
だから心配しないで」
男は安心して眠りに落ちて行った

次の日
男はデイサービスに行き
習字にこう書いた
「〇〇子、大好き大好き」

妻はその習字を見て
最初で最後のラブレターと
つぶやいた

小さなユリが大きくなれば(2019年1月12日)

三つ子の魂というくらいだから
人は三歳で完成してしまう
小さなユリと呼ばれた女の子は
20歳になっても30歳になっても
心は小さなユリのままだ

今、目の前にわれとわが娘がいるのだが
三歳の魂を今ももっているわけで
大人の人間だと思わないほうが
いいわけだ

三歳のころの姿を思い出して
ときには思い出にふける

挨拶はこわい(2019年1月12日)

寒さ厳しい季節である
それでも寒さがやわらぐ日も
あって冬日うるわし、と思う日がある

いつも行くコーヒーの店で
スポーツ新聞などひろげる気にもならず
ぼんやりとカップの中をのぞいたりしていると
隣りの席ではこんな話をふたりの男がしていた

挨拶ってこわいんだよな
どこが?
挨拶したいって言うから会ってみると
なんのことはない、新製品の売り込みだったのさ
こんにちはと言うだけだと思ってたんだろ
それで断るのにまたひと苦労したわけさ
だからさ
挨拶したいと言われたにうっかり
会ったりしないことさ
でもそれじゃ営業の人間は困るだろ
挨拶を口実にするのは彼らだって
死活問題なんじゃないの

このあとは聞きたかったのだが
用事を思い出して店をあとにした

年の残り(2019年12月30日)

ああもう年末、今年が終わる
終わったとたん、新年が始まる
こういうのは終わりとか始まりじゃなくて
単なる区切りなのではあるまいか

時が一本の糸のようなものなら
糸は途切れ目なくずっとずっと続いていく
そんな糸に引っ張られて
われらもずっとずっと続いていく

ある日、われらの糸は断ち切られる
もういいんだ 終りにしようぜ

詩集『ちいさなユリと』(2019年12月30日)

娘とふたり向かい合って夕食をとっていた
はてしない時をさかのぼり
『小さなユリと』
という名の詩集を思い出した

幼い女の子を育てる男が書いた詩集である
シュミーズを洗い、パンツを洗いと
歌う

もし私の娘がユリと同じ年頃なら
きっと私も作者黒田三郎と同じように
娘に夕飯を食べさせ、風呂に入れ、
寝かしつけるだろう

目の前の娘は二十歳も越えた年頃なのだが
私にとってはユリと同い年の女の子に
重ねたほうがしっくりとくるものがある

クルマを運転する(2018年7月29日)

5月連休のころだったか
クルマの運転のしかたを変えた
狭い道の向こう側から
対向車が来たとき
いつも
道幅が広くすれ違えるところまで
バックすることにしてみた

あたりまえだがクルマは後ろにも進める
ミラーを見て慎重に
バックする

対向車はするりと
難なく通過する
そのあとに
また前進をするわけだ

対向車が譲ってくれる、つまりバックしてくれるときが
ときどきある
そのとき以外は
ほとんどいつも譲ることにした

60秒かもっと時間がかかっているはずだ
対向車と意地の張り合いがない分
気分的に穏やかさを失わない
60秒の価値はある