夏至も近づく

春は桜、秋は紅葉の嵐山に住んでいても、通りすがりに眺めるだけの、○○暇なし生活で、それでも一瞬の桜、紅葉に満足の心地がして、ゆっくりと眺めたいものだとはこれっぽっちも思わない。それよりは誰にも省みられない路傍の一本の桜、楓を一年のあいだ、しみじみと見つめていたい。ゴールデン・ウィークが終わり、またまた世間に活気が戻る頃、嵐山の新緑は日ごとに濃くなる。雨に打たれては緑が深くなり、晴れては日差しに葉っぱが照り映える。夕方遅くまで空に明るみが残り、心にしみこむような光景だ。その明るみに明日への希望を託す。今日一日の労苦にめげてしまわないように、誰かがこの残照を見せてくれているのだ。なぜ夏至にお祭りをしないのだろう。きっと梅雨のさなかだからだ。誰も祝わないけれど、夏至こそ一年のハイライト、その頂点に向かって、日差しはきょうも伸びていく。

雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ

宮沢賢治のあまりにも有名な詩。いつも読み流し、あるいは聞き流していたのだが、にわかに気になり始めた。雨にも負けず風にも負けずとは、いったいどういうことなんだろう。人間であれば、雨の日にはかさをさす、風の日には外出しないなど、対策はあるわけで、雨風に勝つだの負けるだの考えはしないはずだ。とすると、これは農作物、たとえば、稲や小麦のことを歌ったものにちがいない。田畑に植えられた稲、麦、野菜はその場所で風雨に耐えて育ち、実る時をひたすら待つ。そういう農作物のあり方に敬意をこめた歌ではないだろうか。言い換えれば、この詩は収穫祈願の歌である、というのが私の発見である。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
と続くのだが、これは農作物を人と見立てて、描写したものと考えると納得がいく。ここから先は想像力がそれ自体の力ではばたく。いずれにしても賢治は農作物と自分を同一視していたようだ。
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

生還した特攻隊員

新緑の甘い香りが40年も昔の中学校の教室へ私を連れ戻した。古ぼけた校舎の、とある教室で、同級だった人が私に語った話である。自分の伯父は特攻隊員でありながら生還したと。その人を仮にA氏と呼ぶことにしよう。A氏は入隊前に現地情報収集に全力を注いだ。太平洋の地図を広げ、飛び立つ基地から飛行距離にある島々を調べ抜いた。そしてどの島に着陸するのが良いか決定しておいた。そして隊員となり、おそらくは皆に見送られて、基地を飛び立った。そして爆撃に向かうのではなく、当初の予定どおり、目的の島に降り立った。見送った皆は当然、敵艦に突撃して死亡したものと思いこんだ。島に着陸したA氏は終戦まで身を潜め、その後帰国した。このA氏の行動を裁く理屈を私は持ち合わせていない。おそらく誰もがそのような原理を説くことができないのではないか。むせ返るような深緑の香りをかぎながら、今の私が思うのは目的を持ち、情報収集することの大切さだ

Coffee or tea?

仕事場を遠く離れることに制約を受ける仕事に携わっているので、在宅で楽しめることがないかなと探していたところ、楽しいことを見つけた。コーヒー好きが嵩じて、生豆を自家焙煎したくなった。そこで、ある商店から生豆と焙煎の道具を購入した。ほうろくにそっくりの道具で煎るだけのことで、複雑なことは何もない。ただ手間と時間がかかるだけだ。焙煎の機械が販売されていることは知っていても、使ったことも見たこともなく、購入したのはいいけれど台所の隅でほこりにまみれて放置してしまいそうな気がして、今のところは、ほうろくのような道具を使用して、つまり手動式で焙煎している。ガスの火で20分ほど、根気よく煎っている間に豆が容器からこぼれるのを拾ってみてその熱さに指がやけどしそうになる。最初はこげるような匂いが立ち上り、やがて生豆が茶色に色づいてくるにつれて、香ばしい匂いが台所中に立ち込める。煙が立ち上り、パチパチと豆が音を立てる。長い辛抱が報われる時だ。もしも毎日焙煎していると、その香りが壁にも食卓にも椅子にもしみ込んで、台所がコーヒー専門店の匂いを放つだろう。豆を粉にするのに手回し式のコーヒーミルを長い間、使っていたけれども、とうとう電動式に取り替えた。そうしてから、だいぶ日が過ぎた。細かな粉にして、たっぷりと紙のろ紙に移し変える。ときどき、こぼしてしまって悔しい思いをする。注ぐお湯は少なめに入れて、濃い目にする。するとどうだろう。どこの喫茶店で飲むよりもおいしい自家製コーヒーのでき上がりだ。と言いたいところだけれど、実際には煎り加減がうまくいかないことの方が多い。煎り方が浅いと酸味が強くなってしまう。インターネットで調べると、生豆を販売している商店は結構たくさんあることがわかる。生豆の種類をいろいろ取り替えて、味わってみたい。と思っていたら、コーヒーに詳しい人の本を読むと、産地よりも煎り加減で味わいが決まるという。

(2005年3月25日擱筆)   

誕生日

ある年齢になると、誕生日を迎えたことをなげいてみせるのが、当節の風習らしい。この世からあの世へと移る時期があらかじめ決められていると仮定してみよう。ひとつ年齢を加えるごとに、終点までの時間が短くなるのだから、なげきたくなるのは無理もない。
あの芭蕉だって、「門松は冥土の旅の一里塚」と詠んでいる。  
あの晩も、「明日はきっといい日になる」と信じて、たくさんの人が眠りについた。
明け方、地面が揺れて、たくさんの人々が亡くなった。そう、明日の命は約束されていないのだった。  
寿命は誰からも約束されていない。  
誕生日の夜、床の中で、母を思い出しながら、そして母がこの世を去った日を思い出しながら、またひとつ年齢を重ねられたことを、ひとり喜んだ。

(2004年9月28日擱筆) 

8月の言葉

 ある日ある時に、ある人の語った言葉が印象に残っていつまでもその言葉をかみしめることがある。きっと語った人はなんの意図もなく、ただ話しただけなのに、聞いていた自分の胸の中で生きている言葉がある。またふと手にした本の中のひとくさりを別の時間に知らず知らずのうちに、はんすうしていることがある。そんな言葉を書いてみたい。

 「すいかを腹いっぱい食べてみたい」
 こんなせりふは初めて聞いた。そしてびっくりした。びっくりした理由の第一は自分自身がそんなことを思ったことがないからである。理由の第二は、すいかを腹いっぱい食べてみるのはきっと満ち足りた経験になるにちがいないと思ったからである。腹いっぱい食べてみたい。その対象はある限られた種類の食物で、ふつう、すいかはその対象にはならないような気がする。「すしを腹いっぱい食べてみたい」という話なら誰かから聞いたことがある。しかし、ことスイカにかけては、腹いっぱい食べたい食物のの対象から最初から除外されているように思っていた。こんな理由でとても印象的なせりふだった。
 そのせいで、今年は意識してすいかを食べるようにした。毎日せっせとスーパーへ買いに行った。コンビニは残念ながら扱っていない。これまでに過ごした夏の日々を時に思い出すこともあった。ロマンチックな夏の思い出ではなくて、茶の間で食べたり野外で食べたりしたありふれた風景を思い浮かべた。
 このせりふは言ったのは誰か。少しだけ明かしておきたい。精神病院に30年間入院し、31年目の2003年に退院した人である。

 お空の天使
 流産や死産のために亡くなった胎児、産まれてすぐになくなった赤ちゃんのことをお空の天使と言う。ある人が名づけた呼び名なので、広く語られる言葉にはまだなっていないと思う。この言葉を聞いて、また本の中の活字で読んで私は考えた。生きて生まれて、そして今も生きているこどものことをいったい何と呼べばいいのだろう。地上に降りた天使では長すぎるので、地上の天使、と短く呼ぶのがいいようだ。
 屋外に5分といられないほどの暑さの、8月のある午後、午前の仕事を終えて自宅に帰りついた。狭い玄関のたたきに小学生の靴がたくさん散乱していた。我が家のこどものくつと、その友だちの靴だった。活気あふれる話し声が道にまでひびいていた。この子たちはみな、それぞれの両親にとっては地上の天使なんだろうな。ただし地上の天使は靴を脱いだらそろえるということをまだ知らないようだ。自分たちおとなはいったい何なのだろうか。元地上の天使なんだろうか。

 さるすべり
 夏の間中、さるすべりの花が咲いていた。去年までは、それを見てなんとも思わなかった。ただそこに咲いている花。ただそれだけのことだった。8月、どういうわけなのか、その花をきれいに感じた。こんなことが自分には多いような気がする。ただそれだけのことと思うだけで、そのきれいさをしみじみ味わうようなことが少ないようだ。なんだか、とても損をしている気になってくる。見る物聞く物みんなすてき、というような経験は自分にはできないのかと思う。

ステンドグラスのあるクリニック

 今年の3月、京都の西端、嵯峨嵐山にクリニックを作った。たまたま空いていた2階建ての店舗を借りることができて、内装を整えた。産婦人科と精神科の、外来だけの小さなものだ。協力してくれる人が何人かいて、開設に向けて作業は順調に進んだ。けれども万事順調というわけにはいかなくて、日々、いくつかスタッフの意見調整がつかないことが出現した。その中で一番大きなテーマとなったのは、同じ時間内に産婦人科の外来利用者と精神科の外来利用者が同じ待合室で待つことだった。待合室も1室、診察室も1室、診察する医師は同じ人、というのではたしてうまくいくのだろうか。こういう疑問があるスタッフから投げかけられた。

 私の持論としては時間帯をわけることは考えもしなかったのだが、結局は、診察時間帯を区別することで、つまり、産婦人科の時間と精神科の時間をわけることにした。その理由は、わけてあることに不満の声は出ないだろうと、考えたからだ。
 その次に話し合いがまとまらなかったのが、窓にステンドグラスを入れるかどうかだった。昼間は車の交通量が多いけれど、夜になると、急激に減り、人通りも少なくなる道にクリニックは面している。進路を北にとると、やがて化野の念仏寺へと向かい、暗さの度合いがいちだんと増してくる。そんな道だから、室内の明かりがステンドグラスをとおしてもれると、道行く人がほっとするのではないだろうか。そしてクリニックをおぼえてくれるのではないかしら。
  そんなことを考えた。けれども、見積もりをきけば、その費用は高額で、やっぱり芸術作品なんだなと思わざるを得なかった。はたしてクリニックの財布で買うことができるものやら、思案することになった。
 自分自身を世に問うこと。そういう機会は求めなければ得られない。求めるのか、求めないのか。うまくいくのか、いかないのか。灰色の世界が広がっているように思える。何度も考えたことだけれど、すでに船は陸を離れている。

家庭出産を支えあうネットワーク「私らしいお産を考える会」NEWS LETTER 2004年4月号より転載

やりなおし

- 自分を幸せにできるのは自分だけ
高校生のころ、将来は学者になると決めていました。たくさんの本のある部屋で読んだり書いたり、また思索したりしてすごす生活にあこがれていました。大学教授になって、本を一杯書いて、有名な学者になる夢を持っていました。
それから20年後。
望みが半分かなって、大学助教授になっていましたが、ほとんど業績らしいもののない、ぱっとしない学者でした。考えたものです。自分の実力はこの程度なのだろうかと。どう考えてみても本領発揮しているとは思えませんでした。
自分が本領を発揮できる分野に移ろう。もしそうしなければ、後悔するに違いないと、粗末なアパートに暮らしながら決意を固めました。やり遂げたい仕事がある。それは自分にとっては、医師の仕事だと、無数の夜と昼、思いを新たにしました。
1988年春、38歳の歳に、医学部の一年生になりました。どんなにうれしかったことでしょう。
それから16年後。嵯峨嵐山に産婦人科と精神科の外来クリニックを開設できました。