古河の町

12月とは思えないような暖かな日曜日、茨城県古河に用事で出かけた。歴史博物館の前を偶然に横切り、門の写真を写した。

 このような家に現代の人は住むことができるだろうか?

 古河はこがと読むのだけれど、ふるかわと知らないとまちがえそうだ。日光街道の宿場町だったそうだ。利根川と渡良瀬川が合流する地点で、手つかずの景色はとてもきれいだったのだろうと想像してみた。

CG(コンピュータ・グラフイック)なら再現できるかな?

夕焼けの枯れ枝

 冬の夕暮れは早い。
 何気なく枯れ木や枯れ枝と言っているけれど、葉を落としているだけのことだ。枝はしっかりと生きていて、つぎの春が来たら、葉っぱをつける。葉っぱが落ちると、枝ぶりがはっきりとわかる。枝のかっこうは一本、一本、ちがった形をしている。
 遺伝を考えてみるとふしぎだ。枝の形までは遺伝子で決められていないようだ。植わっている土地、土壌に含まれた栄養、風、光に応じて、枝を伸ばしていく。木にもし意志というものがあれば、高く伸びたい木、横に広がりたい木、隣と絡まり合いたい木、ひとりを楽しみたい木、種々だろう。
 比翼の鳥、連理の枝という言葉を思い出した。
白楽天の長恨歌にある詩句で、在天願作比翼鳥、在地願為連理枝が元々の文句である。
天に在っては願わくは比翼の鳥と作(な)らん
地に在っては願わくは連理の枝とならん

かけ声

 スターバックスでコヒーを注文すると、お店の従業員の全員が声をそろえて注文を繰り返している。たとえば「カフェオレのSサイズ」と注文すると、「カフェオレS」と唱和する。

 どうして唱和するのかしら? と長いあいだ、ふしぎに思っていた。
最近、その答えを見つけた。といっても、お店の人にたずねたわけではない。あくまで自分で考えたものだ。だから、まちがっているかもしれない。

 唱和する理由は、働いているあいだの緊張感や一体感をたえず確認するためだと思う。一人一人の持ち場が決まっていて、それぞれが作業を分担する。ひとつのことにたずさわるのは誰か一人だけ。そういう職場では、声をかけあっていないとどうなるか? 孤立感とか孤独感、疲労、意欲の低下など気持ちが沈滞してしまう。

 似たようなことは野球の守備のかけ声や、祭りのお神輿のかけ声にもある。お神輿を沈黙のうちにかつぐことに人は耐えられないのではないかしら? それになんといってもお祭りらしくない。

秋の空 

 風もなく、暖かな日よりの日曜日だった。空き地にビニールシートを敷いて、寝ころんだ。こうすると空が見やすくなる。

 しばらく空を見ていた。雲の動きがゆっくりだった。

甲子園 その1 甲子園駅

 甲子園と言えば、甲子園球場を思い浮かべる人がほとんどだろう。阪神電車の甲子園駅はそこへいたる道中でしかない。私にとっては半世紀も昔に乗り降りしたふるさとの駅である。駅と球場とは至近距離にあって、途中、簡易食堂が軒を並べていた。行き帰りにその前をとおって歩いた。まもなく始まる試合の見物客の長い行列に阻まれながら、そしてダフ屋さんの声を聞きながら、帰宅の途次を急いだ。
 今も同じ光景なのだろうか? 

 球場の北側を高速道路が横切る。芝生の植えられた広場はなくなった。それは致し方のない空間の利用なのだろう。

 去年、思いついて、甲子園駅に行ってみた。過ぎた半世紀はもう戻って来ないけれども、京都から1時間半の道のりで着いた。そこには同じ空間が残されていた。駅のプラットフォームがあまりに狭いのに驚いた。記憶の中では決して狭いと感じたことはなかった。思わず想像したことがある。
 はたして土俵ひとつがこの幅の中に入るだろうか?
たとえ土俵ひとつを描けたとしても、土俵を割ると線路に落ちてしまう。そんな幅の狭さだった。
 地上からの高度が相当あることにも驚いた。つまり幅が狭くてしかも相当の高さの場所に立つことになるわけで、眺めがよい反面、高所恐怖を感じそうになった。少年だったころにはそんな感覚はまったくなかったのに。

 けれども、プラットフォームを大改修したりしないで昔の姿をもうしばらくとどめていてほしい。甲子園の町はすっかり変わってしまったけれども、駅は階段もプラットフォームも昔のままだった。そのような気がする。これは錯覚だろうか?
 半世紀も持ちこたえたのだろうか?

柿の葉色づく

 季節は確実に秋の真ん中へ向かって進む。

柿の葉が赤くなった。梢のてっぺんにカラスがよく止まりに来る。
実をねらっているだろうか?

平安神宮 その2

 門を出ると左側に日本酒の樽が奉納されていた。

  酒樽には当然、お酒が入っていると長い間、思っていた。ところが、ある日ある人からからっぽなのだと聞かされた。
 確かにそうかもしれない。重くて扱いに不便だし、夜間だれかがこっそりと飲んで酔っ払うことだってありそうだ。
 でも本当はどうなのだろう?

平安神宮 その1

 移動の途中、平安神宮に立ち寄った。本殿まで至らず、門に入っただけだけれど。

ふだんは本殿のずっと北側の通りをとおる。通るたびに、一度寄ってみなくてはと思いつつ年が過ぎた。修学旅行生と思われる集団が見られた。

暑がり 寒がり

 ちょうど今の季節、服装がきれいに二通りに分かれる。暑がりの人と寒がりの人とではまるで違う。暑がりの人はTシャツにはだしでサンダルをはいている。寒がりの人は長そでの重ね着の上にさらに合いのコートをはおる。

このように暑さ寒さの感覚の個人差は大きい。そうだったら、制服の中学生や高校生の衣替えにも時間の幅をもたせてみたらどうだろう? 一斉に衣替えするのはそれなりの目的があるのだろうけれども、一人一人の感性を大切にしてやりたい気持ちがする。

難読の姓

 9月にはなぜかわからないけれど、難読の姓の持ち主にたくさん出会った。
栗花落さん
霊岳さん
今久留主さん
善定さん
私は全部、読めなかったです!
読者の方々、読めますか?