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小学校の授業で
いちばん楽しい時間は
家庭科だった
運針も
調理実習も
ちりとり道具作りも
そんな話を亡妻にしたら
「そのわりには今はあんまり
家の用事をしないわね」
と言われてしまった
きっと
自分の思いは
過ぎ去った小学生の日々を
懐かしむところに
あって
家庭科が楽しいというのは
思い出の糸口だった
もし亡妻にもう一度語らせるなら
「小学生の頃って
誰にとっても懐かしい思い出があるわね
つらい思い出だってあるし
私にもいろいろある
それにしても家庭科が好きって意外だわ
そういう才能があるのだから
今、発揮したらいいんじゃないのかな」
二つ月ぶりに父と町のレストランで夕食をとった
反対方向にそれぞれが帰ることになり
私の乗ったエスカレーターは上に進み
プラットフォームの階についた
振り返ると
私を見つめる父の姿があった
その目がうるんでいるように見えた
さっき
目と目を見合わせて
きょうはさよならと
言ったばかりなのに
下りエレベーターに乗り
もう一度、父にさよならを言いたくなった
冷たい手であった
まだ秋は始まったばかり
日差しは暖かなのに
カイロで温めなければ
かじかんでしまう
冷たい手であった
食べられない病気にかかり
体温を維持するためには
自分の体を燃やし
それでも体温は上がらず
カイロが頼りの
冷たい手であった
診療所のスタッフ皆で
手を握り
温めて
夜の闇をついて家路に送り出した
いつの日にか
成人し
温かな手になって
尋ねてくれることを
願った
いつの間にか
キンモクセイは出世した。
昔々のこと
元々は便所のそばに植えられる
雑木だったのだのに
今は愛でられる木になった
キンモクセイの香りが
漂う日に
青い空を見上げている人がいた
その人が逝って早二年
今年の開花は遅く
10月中旬になった
そのぶん 花のつきはよく
一面のオレンジの海のようだ
今日という日に
青い空を見上げて
キンモクセイの香りをかぎながら
亡妻を懐かしむ
キンモクセイは二度咲きすることを
誰か知っているだろうか
甦れ
妻よ
映画館が映画館だった頃
シネコンというものがまだなかった頃
一人の女子高校生が映画館へ一人で
映画を見に行った
隣の席の男が彼女の膝に
手を伸ばしてきた
彼女は言った
おじさん
そんなことしてたら
痴漢と間違えれるで
男は手をひっこめた
もしこの女の子が
痴漢や
助けて
と騒ぐこともできただろう
この女の子は
冷静だった
そして
賢かった
何か特別にいいことがあったわけではない
なにしろ
コロナだからね
そんな夏と
別れはさびしく
夏は立ち去りかねている
酔芙蓉が朝に花を咲かせている
なかなか来ない秋を
待ちわびて
ようやく出会った秋
キンモクセイの香り
今年は二度咲きになりそうにない。
娘は関東に
私は関西に
東と西に離れ離れ
結ぶのは LINE
日中はまだ暑いくらいの
初秋の日に
こんなやりとり
「そういえば そろそろお米がなくなる」
お米というのは3か月ほど前に
ふるさと納税で寄付した自治体から
送られてきた米のこと
「そいじゃあ また寄付してお米を
送ろうか」
「無洗米がいいな
冬は研ぐのが冷たいから」
そのあと ふるさと納税サイトで無洗米を探し
よさそうな自治体に寄付をした
マスクをつけるのが標準の時代なので
愛の作法も変わってきた
マスクを外すことが
サインとなった
愛ある者同士のあいだでは
マスクを外す
じゃあ
マスクを外そうか
これが親密の言葉になった
愛の作法がひとつふえたわけで
歓迎したい
コロナと共生するのだという
共生というなら
双方に何かしらの得があるときに
言うのではなかったの?
一方だけが得するときには
共生とは言わないんじゃないかな
それでも
with コロナだと人は言う
天にあるコロナが人を支配しているのだから
under コロナ
こういってほしいものだ
名前がおもしろくて
忘れられない
英語では
roomba
roomに
baがついて
roomba
もし寄付を受ける団体を
作るなら
名前は何にしよう
キフミーがいいな
キスミー or キフミー