蝶よ 花よ(平成25年10月14日)

人並みに昆虫少年だった頃がある。

蝶よりもトンボが好きだった。

ひらひらと飛ぶ蝶に対して

トンボは一直線に飛ぶ。

私の好き嫌いでは、トンボの飛び方の方が

はるかに好きだった。

昆虫少年の心はとうに失われて、トンボの姿を

見て心がはずんだのは遠い昔の日々になった。

そして世間では蝶の好きな昆虫少年が多数だと

いうことを最近になって知った。

今年の暑かった夏の日々、トンボの姿を

見ると心がなぜか、なごんだ。

雑草のしげみにガの幼虫を見つけた。

とても地味な成虫になる。

夏のある日の駅の風景(平成25年10月14日)

すっかり去っていった夏。まためぐってくる来年の夏。

夏はこれからもくりかえしくりかえし、来ては去り、

来ては去る。

3年前の夏の日、所用で、大阪へ行き、

環状線のとある駅で降りた。

初めて降りる駅だったけれど、駅前風景は

これといって目新しいものはなく、マクドナルドや

セブンイレブンが並んでいた。

私の目を引いた光景があった。

駅の改札口で、何気に人を待っているふうの親子があった。

母親と二人の男の子。小学生の低学年と高学年に

見える背丈と顔つきだった。

電車がプラットフォームに到着し、乗降客が動き、

発車していくのがざわめきで知れた。

改札口に、一人の男性が現れた。

片手に大きなボストンバッグを

さげているほかは目立たない、

ごく普通の様子であった。

その男性が改札口を通り抜けたとたん、

二人の男の子がさっと近づき、

男性の両腕にすがりついた。

「お帰りなさい、お父さん」

二人の男の子は両側から父をはさみ、

顔に笑みを浮かべて、

少し離れて立っていた母親のそばに近づいて行った。

この男の子たちはあまり勉強しない子かも

しれないし、整理整頓が苦手かもしれない。

けれども、おそらくは単身赴任でたまに帰ってくる父親が

大好きなことだけは確かだ。

こわれた椅子(平成25年9月29日)

背もたれの右側のぎぼし(擬宝珠)が折れて

修理もしないでいるうちに何年もすぎた。

クッションは弾力を失ってしまって、

すわり心地がまったくよくない。

つまり、こわれたいす。

無理もない、買ってから30年はたつのだから。

最近、読んだ本の中のひとくさり。

「都市公園を訪れる人々は

座る椅子を決めると、必ず

ほんのわずかでも

動かし位置を定め、

ひと時でも自分の場所と

するのだ」

いろんな場所で

人々がいすに座るとき、

椅子から立つときを

見るともなしに、見ている。

座るときに椅子を動かし、

立つときにも椅子を動かす。

ほんのひと時、自分の体を

預ける椅子にこんにちはと言って

座りる。

立ち去るときには

自分の体を預けた椅子に

さようならと言っているように

思われるのだった。

出会いと別れ。

椅子もまた。

 

 

 

ひそやかなネコの語らい(平成25年9月29日)

バラをいけた花びん。

オレンジ色のやや小さめの花びら。

ネコどうしがひそやかに語り合う。

「きのうが誕生日だったんだね」

「誰のだろう?」

「私たちのことじゃない」

「9月うまれだもの」

日曜日の昼下がり、

あたたかな陽射しをあびながら、

ネコはふたたび、まどろむのだった。

すいふよう(平成25年9月28日)

真夏の花なのに、今年は咲かなかった。

ふしぎに思っていたら、9月も半ばをすぎてから

思い出したように咲き始めた。

遅刻すまいと懸命に走る中学生のように。

朝、はなびらは真っ白。

ふちから少しずつ色が変わり、

夕方、ピンクに染まっている。

すいは酔。酔いのまわった顔の

ようなはなびらの色。

暗くなるとはなびらは閉じて

まんまるの座布団のようになる。

そして落下,落下、また落花。

たった一日だけの花のいのち。

深夜、見に行った。

さやから白いはなびらが

のぞきかける。

早朝、再び見に行った。

風にゆられて、蝶の羽のように。

花のいのちは短くて。

 

 

雲は流るる(平成25年9月28日)

夕暮れが早くなった。

午後6時。外は真っ暗。

秋分がすぎたのだから、

日暮れは早く、日の出は遅くなっていく。

西脇順三郎の詩を思い出した。

(覆された宝石)のような朝

何人か戸口にて誰かとささやく

それは神の生誕の日

現代の何人かは戸口で別のことをささやく

秋から冬へ

空は底がないほどに澄みわたる

これほど美しい季節はない

 

 

いちじくの実(平成25年9月28日)

いちじくはどこから来たのだろう。

干しいちじくを買うとトルコ産が多い。

だからトルコ。

トルコのイチジクはどこから来たのだろう。

アフリカではチンパンジーがいちじくの木に

よじ登り、実を食べる。

だからアフリカ。

丈が高く、葉の形が大きく、

アフリカのいちじくの木は大木になる。

チンパンジーの一群れが登っても、傾きもしない。

そして完全栄養。

もしかしたら、バナナよりもはるかに栄養になる。

季節の食べ物として、

晩夏から初秋のくだものとして、食べれられるのは

もったいない気がする。

干しいちじくを食べる習慣が定着していないからだろう。

ああ、いちじくの畑の真ん中で暮らしたい。

白秋はカラマツの歌を歌った。

カラマツの林をすぎて

カラマツをしみじみと見き

からまつはさびしかりけり

旅ゆくはさびしかりけり

いちじく畑を歌ってみたくなった。

いちじくの畑をすぎて

いちじくをしみじみと見き

いちじくはおいしかりけり

旅ゆくは実を食糧とし

葉を枕にせん

 

アシナガバチの冒険(平成25年9月1日)

地域ネコがときおり、ふらっと立ち寄るので、

あるとき、煮干しを金属製の皿にのせておいた。

小さなサカナが乾燥して、からからになったものを

ネコは好むようだ。

しばらくして皿に目をやると、すっかり煮干しは

なくなっていた。

煮干しの皮が皿に残っていて、アシナガバチが飛んできた。

しばらく皿の上を旋回して、降りてきたかと思うと、

煮干しの皮を口にくわえて、飛び上がろうとした。

ところが、皮が重たすぎるようで、皿の上10センチ

までしか飛び上がれない。

そこで、もう一度、皿に降りて、

もっと小さい皮を口にくわえた。今度は軽々と

飛び上がり、どこかへ消えて行った。

えさにするのか、それとも巣を作る材料にするのか。

帰り道はしっかりと記憶していて、迷いもせずに

飛んで行ったのだろう。

砂糖粒のひとつよりも小さな脳なのに、

なんと優秀なのだろう。