アマガエル

 ふとん干しの道具につかまっているアマガエル。体長4センチほどでわりと大きい。
翌日にはもう、いなくなった。アマガエルは鳴かない。今日の日曜日、家の回りではカエルの鳴き声がよく聞こえた。ウシガエルの大きな声がひときわひびきわたる。
 水田ではオタマジャクシが泳いでいる、そんな季節になった。アユ釣りも始まった。
若鮎祭りというのが近くの川原であって、先着順で数百名にアユの塩焼きがふるまわれるのだそうだ。

卵と壁

~村上春樹氏受賞スピーチに寄せて~

 卵をこわれやすいもの、弱いもののたとえに用いた話だったのだそうだ。卵のこわれやすさのことを考えてみた。
 自然界にはニワトリの卵の殻と同じような強度で同じような形のものは他にはなさそうだ。あのこわれやすさが理にかなっていることを最初に言いたい。
 もし、卵の殻が相当堅い、つまり、強度が相当のものだと仮定してみよう。そうするとどうなるか? ひよこが内側から殻をつついて破ることができなくなるだろう。他の動物がニワトリの卵を失敬して食べてしまうことができなくなるだろう。大変堅いわけだから、どんな動物であってもその殻をこわせないのである。人間にとっても食用にならないだろう。ゆで卵をつくったりすると大変なことになる。食卓の角でコンコンとたたいたくらいでは殻をむくことができない。
 だから、あのこわれやすさ、あの殻のうすさがとても大切なのだ。強く握れば素手で簡単につぶれてしまい、卵どうしがぶつかれば簡単に壊れてしまう。その壊れやすさが実に卵の長所なのである。
 つまり、強ければいい、というのではないのである。

時計がおもしろくなくなった

 時計といっても卓上時計のことだ。壁掛け時計や腕時計のことではない。この頃の卓上時計はほとんどがデジタル時計である。家電量販店の店頭には種々の製品が並べられている。多少の外観の違いはあっても、文字盤を見れば、まったく同じに見える。
 0から9までのどの数字も表示するためなのであろう。どの時計も見ても、数字の形は同じである。
 壁掛け時計ならそれぞれ数字の字体の違いがあって、個性的に見える。大きさも大小さまざまだ。それに比べて、デジタル置時計の大きさはそれほど変わりがない。肝腎の時計本体が同じなのではないだろうか。
 同じ置時計でもアナログ時計なら文字盤や数字の字体や長針・短針の形にも違いがほどこされている。さらには外観も大きく異なるものがある。
 時刻さえわかれば用が足りるわけだから、字体がどうの、文字盤がどうの、という方がおかしいと考える人が大半を占めているのだろう。
 デジタル時計は今始ったばかりだ。これから長い年月が過ぎれば、もっと多種多様な形の美しさを見せてくれるのかもしれない。

地域ネコの口の中

 今年の三が日は寒い。全国的に寒いそうだ。沖縄本島でもダウンジャケットを身につけるほどだそうだ。北海道の千歳空港では欠航が相次いだ。
 このあたりの地域ネコがこの寒い日にやってきた。
口をあけるのを見ていると、鋭い歯が上下4本ある。人間の歯でいえば、犬歯に相当するのだろう。ネコの歯も犬歯っていうのだろうか?

川をこえて

 京都から大阪を経由して神戸まで、阪急とJRを乗り継いではるばる日帰りの旅をした。
片道2時間余りかかった。電車はたくさんの川をこえた。10をかるくこえているだろう。
その名前をひとつずつあげることができたらいいのだけれど、地図で確認でもしなければ
できそうもない。どの川も静かな水面をたたえ、どちらが上流なのかわからないほど静止して見えた。

 JR山陽本線を走るとき、車窓から瀬戸内海が見える。右側が淡路島と徳島、向いは関西空港のあるあたりの大阪南部。神戸空港に離着陸する飛行機も時間帯によっては見えるはずだ。今夜は船の汽笛もひびくだろう。

小雨ふる元旦

 元旦は晴れと決まっているわけはないけれども、めずらしく小雨まじりの寒い元旦になった。一瞬、日が照ったかと思うと次の瞬間には雲におおわれる。
 門松、お飾り、日章旗のうち、お飾りだけは飾った。
来年のことはわからないけれど、気持ちが変わっていなければ、小さな門松を置き、小さな日の丸を掲げよう。

くわい

写真だと大きく見えるけれども、小ぶりのくわいを三個、机に並べた。
青味がかった色合いで、まるで地球のようだ。正月にしか食べられないのが残念だ。

きょうは大みそか。除夜の鐘をつきに行こうかと迷った。近くの御寺の鐘突き場からは京都市内の夜景がよく見える。その夜景には心ひかれるけれども、寒風をいとう気持ちが勝った。

初雪の嵐山

 寒波が来た。雪を降らせた。嵐山を白く染めた。

 こんな朝に早起きをして左岸を見下ろす丘に登ると、どんな景色が見えるのだろう。

古河の町

12月とは思えないような暖かな日曜日、茨城県古河に用事で出かけた。歴史博物館の前を偶然に横切り、門の写真を写した。

 このような家に現代の人は住むことができるだろうか?

 古河はこがと読むのだけれど、ふるかわと知らないとまちがえそうだ。日光街道の宿場町だったそうだ。利根川と渡良瀬川が合流する地点で、手つかずの景色はとてもきれいだったのだろうと想像してみた。

CG(コンピュータ・グラフイック)なら再現できるかな?

夕焼けの枯れ枝

 冬の夕暮れは早い。
 何気なく枯れ木や枯れ枝と言っているけれど、葉を落としているだけのことだ。枝はしっかりと生きていて、つぎの春が来たら、葉っぱをつける。葉っぱが落ちると、枝ぶりがはっきりとわかる。枝のかっこうは一本、一本、ちがった形をしている。
 遺伝を考えてみるとふしぎだ。枝の形までは遺伝子で決められていないようだ。植わっている土地、土壌に含まれた栄養、風、光に応じて、枝を伸ばしていく。木にもし意志というものがあれば、高く伸びたい木、横に広がりたい木、隣と絡まり合いたい木、ひとりを楽しみたい木、種々だろう。
 比翼の鳥、連理の枝という言葉を思い出した。
白楽天の長恨歌にある詩句で、在天願作比翼鳥、在地願為連理枝が元々の文句である。
天に在っては願わくは比翼の鳥と作(な)らん
地に在っては願わくは連理の枝とならん