アスリート・フット

 爪水虫と言う名前の病気がある。足の水虫を長いあいだ放置しておくと、爪にまで水虫菌が入るようになる。それが爪水虫だ。最初は爪の色が濁ってくる。そのうち、黄色になってくる。さらに時間がたつと、両側の皮膚にくいこんでいく。まき爪である。こうなると切ることもむずかしくなる。

 水虫くらいと放置しておくと、爪水虫からさらに足がくさっていく病気になる。それがえそである。

 英語ではアスリート・フットという。運動する人たちが、着がえのときに、はだしで踏むマットや床から菌をもらってうつるから、こういうのだそうだ。

 ここに書いたことは最近、皮膚科医から教わったことで、印象的だった。実例を写真で見せたいところだけれども、まだモデルが登場しないので、のせられない。いつかモデルが現われたら、のせてみようかと思っている。

つばめはなぜ急ぐ?

 とうとう見つけた。巣の中から顔をのぞかせているのが見つかった。写したものを下の方にのせてある。できることなら親つばめが餌を食べさせている場面をとりたかったけれど、あまりにすばやさにカメラをかばんから取り出した時には、すでにどこかへ飛んで行った。

  ネット検索してみると、ひなが巣立つまでの写真をのせてあるホームページを見つけて、今まで知らなかったことが明らかになった。つばめの巣にはふつう、親つばめは暮さない。巣にいるのはヒナだけなのだった。親つばめはどこか離れたところの電線か何かにつかまって、夜を過ごすのだそうだ。

  親つばめは最初につがいを作り、交尾するのだと思う。やがてメスつばめが妊娠する。急いでつがいは巣を作る。やがてメスが卵を産む。ひながかえり、父さんつばめと母さんつばめが協力して餌を運ぶ。つがいを作る時からひながかえる時まで、おそらく短い時日なのだろう。こういう順番を考えてみたけれど、ほんとうはどうなのだろうか?

  一番はじめに巣を作り、そのあとで、つがいを作るようなことはしないと思うのだ。人間ならいざ知らず、最初に巣を確保しておいてから、相手を探すようなことをつばめはしないにちがいない。相手と交尾してしまったから、卵を産む前に巣をせっせと作っているのだと考える方が、当たっているような気がする。

  人間だって似たところがある。できちゃった婚という代わりに、つばめ婚と言ってみるのはどうだろう?

ツバメは急ぐ

 毎年、毎年のことで見なれた光景に、突如として、心をゆさぶられることがある。

つばめが足元すれすれの地面を飛んでいく。空をすべるように飛ぶ。滑空ということばがにつかわしい。元々が小型の鳥だから、飛ぶ速度が速くなければ、大型の鳥や動物の餌食になってしまうはずだ。そうならないために、早く飛ぶことをおぼえた。とまあ、こんな想像をしてみる。

  巣を作る場所は決まって深い軒の下だ。巣の材料は枯れた木の枝だとか、ともかく、植物系のものである。どこで見つけるのだろう? あの速度で滑空しながら、たえまなく、捜し求めているのだろう。一回に運べる分量はわずかなものだから、何度も何度も、巣と往復しているにちがいない。

  まことにけなげな鳥だ。ただひな鳥を孵す(かえす)ためだけに、あれだけの働きをしているのだから。滞在期間は限られているうえ、卵をうみ、育てる期間もわずかしかない。
だから、つばめは急がなければならない。

  巣を作り、卵をうみ、ひなを育て、ひな鳥とともに、海を渡っていく。そういうように脳にプログラムが設定されていて、そのプログラムどおりに行動しているわけだけれども、どこに巣を設営するのか? どこで巣の材料をみつけるのか? その場その場で思考しているはずだ。ある日をさかいに巣を捨てて、大群となって、海を渡る。それを指揮している鳥がいるにちがいない。それにしても、きょうこの日に飛び立つ、その合図はどうやって交わされているのだろう?

  ひなにえさを与えている場面はときどき、写真などで見る事ができる。親鳥がひな鳥に餌をやる。ひどく当然の、そして自然の行為だ。食べたい、強くなりたいというひな鳥の本能と育ててやりたい、養ってやりたいという親鳥の本能は、遠い昔にたもとをわかって、異なる進化の道を歩んできた私たちにも共通のものがある。

  デジカメを片手にあちらこちらと歩く。つばめの巣はないか? こう思っていると案外に見つけられない。やはり、写真にとりたいというこちらの欲があるために、かえって、見つけられないのだろう。かといって、何気なく歩いていて巣を見つけることがあり、そういうときに限って、デジカメを持っていない。

  来年もあることだし、と思うのがよさそうだ。

もう一つの世界遺産

 世界遺産の登録がしだいにふえて、そのたびに行きたい所がふえて困ってしまう。
世界遺産へ行きたしとおもえど、世界遺産はあまりに遠し。
こういう心境になってしまう。

 どんな職業でも徹底すれば仕事場にこもりっきりになるか、反対に各地を転々と動き回るかのどちらかになる。こもりっきりは居職(いしょく)と呼ばれる。各地を旅から旅に回るのは旅芸人と呼ばれる。どちらであっても世界遺産に行くヒマがないことには変わりがない。

  私の場合、居職の方で、半径1キロが生活圏兼仕事圏である。
そこでつまらないことを考えついた。

  たとえばアインシュタインの一般相対性理論がある。これだって考えようによれば、物理学上の世界遺産である。ただどこかそこへ行けば見えるといったものではない。どこにいようが、理解できれば、それを見たことになる。

  でもむずかしいのだろう。

他にも考えてみた。
  ベートベンの交響曲を全部聴くことなど音楽分野の世界遺産もある。
トルストイの長編小説やドストエフスキーの小説を全部読むのは文学分野の世界遺産めぐりである。

  これだってむずかしそうだ。

 実際には半径1キロ圏内に世界遺産が1か所ある。天龍寺がそれだ。6月に咲くハスの花がきれいだ。今年は見に行くことにしよう。

春を感じる時

 今年も春がやってきた。というよりも今年も春にめぐり会えた。こう思ったほうがいい。なぜなら春の到来は約束されているけれども、それにめぐり会う自分の方はあんまり約束されていないからだ。3月の暖かな日差しを浴びながら、これはすばらしい幸運と受け止めた。
  植物にも季節の兆しがあらわれている。あちらこちらで梅や椿の開花が見られるようになった。

 日本には四季があると教えられた。瀬戸内海をのぞむ町、首都圏の郊外、北海道の日本外側の3か所に住んだ経験からあらためて考え直してみた。日本には季節はふたつ、夏と冬がある。冬から夏へ変わっていく途中で、春の時間を通過する。同じように、夏から冬に変わっていく途中、秋の時間を通過する。二交代と言うと、まるで病院や工場のようだけれども、季節もまた二交代だ。
  ただ瀬戸内や首都圏では、通過点にすぎない春と秋の時間がかなり長いので、四季といってもかまわない。

 京都盆地には椿やさざんかが多い。しばらく住み始めてからこのことを発見した。生け垣や庭木によく使われている。たぶん価格もさほど高価ではないのだろう。ただし、種類が多いので、品種によっては高価なものもあるのかもしれない。ちょうど今、さざんかが盛りで、椿も満開が遠くない。

 どこかに空地を見つけたら、ピクニック用のシートを敷いて、寝ころんでみたい。ぼんやりと空を見上げたり、うたた寝をしてみたい。
  もし常夏の国と常春の国の二つがあるのなら、常春の国に住みつきたい。

やる気

 やる気のあるなしが気にならないのが実はいちばんいい状態だ。やる気のあるなしを自分の胸に手を当てて、毎日、あるとかないとか確かめるのは不便なことだ。電車なら最初に切符を見せないと乗せてくれない。しかし、自分自身のことだから、やる気の切符はいらない。やる気があろうとなかろうと、とにかく、やり始めればいい。やり始めたら、だんだんやる気がわいてくる。やがてやる気が燃えあがってくる。自分自身の中で燃えているやる気を感じる瞬間が訪れる。その時が来るまで、やり続けるだけだ。

 やる気を物体にたとえれば、どんな物体だろうか? 樹木のような形をしていて、大きく枝を空に向けているのだろうか? あるいは海深くを泳ぐマグロのような流線型をしているのだろうか? 新幹線のような形、あるいは、宇宙ロケットのような形をしているだろうか?

 それは自分の心に中にある大切な部分である。毎日、励ましの言葉、ねぎらいの言葉、いたわりの言葉、ほめ言葉をかけてやると育ってくる。
それはとてもせんさいな心の働きである。育ち始めた若葉のように、風雨からも直射日光からも守ってやらないとならない。
  それは待っていても、やって来ない。
  それはときどき休みたがる。
  そのときは休ませてあげよう。

僕のお母さんは美人

小学生のとき、少し変わった塾に通っていた。6年生の一年間のことだった。塾の生徒数は全部で8人だけだった。2クラスに分かれるので1クラスは4人しかいない。4畳半の小さな部屋なのでそれだけしか入れなかったのだ。真ん中に先生の座る席があり、四方の壁に生徒が一人ずつ座る。そんな並び方だった。もちろん、他の日には他のクラスがあるのだが、生徒クラス間の交替はなく、いつも同じ顔ぶれだった。

全員が男の子で、その中の一人、N君の口癖は「僕のお母さん、美人」というものだった。鉄道模型の高級なのを持っていることを自慢にしていた。違う小学校の生徒だったので、家も離れていた。

ある日、鉄道模型を見せてもらいにN君の家に遊びに行った。見たくてたまらなかった蒸気機関車の模型を見るだけではなく、さわらせてもらった。そしてN君の言うとおり、お母さんは美人だった。和服を着ていた。

N君がつねづね言っているから美人に見えたのかもしれないなどと今にして思う。N君は自分自身の審美眼にしたがって、そういうセリフを口にしていたのだろうか? まさか、お母さんがそう感じるようにしつけをしたとも思えないのだが。

その塾の仲間は全員が同じ中学に合格した。合格の祝いに両親に蒸気機関車を買ってもらった。嬉しいはずなのに、あまり、嬉しくなかった。趣味というか興味というか、入学試験を過ぎてしまった後に変わってしまったのだった。

麺のいろいろ

暑くて頭の中が沸騰(ふっとう)しそうだ。もう沸騰したあとかもしれない。それでつまらないことを考えた。
日本には麺類の種類が多い。
まず日本発の麺類。うどん、そば、そうめん、きしめんの4種類がある。
中国発のラーメン。
アジア発のビーフン。
イタリア発スパゲッテイ。
ラーメン以外は乾燥させた物がある。保存食になる。
それぞれにおいしい麺類をしかもこれだけの種類があって、一国にいながら食べられる。日本だけではないだろうか?

 夏はそうめんをゆでる。
これなら自分ひとりでもできる。そうめんは麺類の中では一番細いからゆで時間も短い。省エネ優等生だ。将来、燃料不足の時代が来たとき、そうめん以外は制限されるかもしれない。
だしつゆも完成品を使う。薬味を気にしなければ、これだけで昼食代わりになる。お店で出されるそうめんにはいろいろと食材があしらわれて、
きれいだ。自宅で、ひとりで食べるのは、あっという間に終わる。
あと片付けもかんたんに終わる。

ところがときどき、困ったことがおきる。
だしつゆとアイスコーヒーのびん容器をまちがえてしまう。どちらもガラスのびんに入っている。見た目の色は同じだ。どちらも冷蔵庫に入っている。ラベルをさっと見れば、まずまちがえない。確認を忘れてしまう。
そういうときに限って、めんつゆのつもりでアイスコーヒーを器に入れる。一口食べて気づく。

 麺類の種類が豊富なだけにあまり食べない物が出てくる。何を食べないかは人によってちがうだろう。私の場合はラーメンをあまり食べない。好き嫌いのせいではなくて別の理由がある。カウンター席が苦手だ。
 カウンターごしに、できたてを目の前においてくれるとき、「もしその手がすべったらどうなるのだろう?」と考えてしまう。頭からラーメンを汁ごとかぶることになる! 頭といわず、顔といわず、やけどしてしまうだろう。実際にはこういうことはまず起きないのだろうけれど。

地球の1日

小学校で地球の自転と公転を習ったとき、担任のK先生がこんな質問をした。
「もし引力がなくなったら、どうなると思う?」
「地球が落ちていきます」
私は手をあげて、答えた。
「落ちるっていうけど、どっちへ落ちるの?」
「下へ落ちると思います」
「そうすると、どっちが下なの?」
ここから先、私は答えられなくなった。
今もこの問いに私は答えられず、学ばないまま過ぎた年月の何という長さだろう。

自転と公転がなぜ起きるかを私なりに考えてみた。
もし引力が働くだけならば、地球は太陽に引き寄せられる。ところがそうなりたくないので、太陽の周りを回転することによって遠ざかろうとする。こうして引力が遠心力に打ち消される。

また別の理由を考えてみた。
じっとしている状態に耐えられないからだろう。じっとしていることには耐えられなくて、公転と自転を行なうことでたえず、太陽からの距離が一定になるように地球自身の位置の調整をしているのではないだろうか?ちょうど電車で隣り合って腰掛けているとき、微妙な距離感を保つために細かな動きをするように。
稚拙な、ナイーブな、素人の考えなので、間違いだろうと思うけれども、一面の真理を含んでいることを期待している。

来る日も来る日も、地球が一日にしていることと言えば、自転と公転である。これ以外のことを何もしていない。宇宙という空間があり、そこに太陽系があり、太陽の周りを地球が回る。思えば不思議なことだ。
自転のスピードを計算してみよう。赤道上では、
4万km÷24時間=時速1666km。
とてつもなく早いのに、地上の我々はまったく感じることができない。公転のスピードの計算だってできるはずだけれども、あいにく1周の距離を調べられてなくて、計算できない。おそらくこちらだって時速数千kmだろう。

地上の万物には1日が与えられている。犬の一日、ネコの一日、花の一日、イノシシの一日・・・・ いくらでも並べていける。何もかもがそれぞれの一日を過ごしているわけである。このこともとても不思議に思う。

3匹の犬

知人から聞いた話ばかりになってしまうけれども、印象に残る話だったので、書いてみたいと思う。

まず 1 匹目のイヌ。種類はシェパードで、警察犬として養成されていたあるイヌの話だ。警察犬は「噛め!」という合図があれば目指す人間を噛むようにしつけられる。噛むことが任務だし、任務である以上、噛めと指図されたときだけ、噛むように訓練を行なうわけである。私の知人 A 氏は何頭もの警察犬を養成する係りだった。ところが、ある訓練中のシェパードはどういうわけか、噛め!と命令すると相手かまわず噛みつく。師匠である A 氏にも噛みつく。 A 氏は腕に生傷が絶えず、とうとう退職を決意するに至った。そのときの噛まれた傷はしっかりと A 氏の両腕に残っている。

次に 2 匹目のイヌ。同じく種類はシェパードで、幼い頃にイヌ好きのB氏に飼われた。成犬となり大きな小屋を建ててもらった。B氏はすでに退職した70歳代の筋骨たくましい男性で、綱を力強く引き締めながら、朝夕散歩する姿が見られた。時が過ぎ去り、B氏は物忘れをするようになり、一人で外出すると帰宅できなくなった。それでも朝夕の犬を連れての散歩は雨の日以外、欠かしたことはない。散歩コースを愛犬がおぼえていたため、もはや道がわからないB氏は困ることはまったくなかった。

最後に 3 匹目のイヌ。年老いたシバ犬が大きなお屋敷の主に飼われていた。お手伝いさんが毎朝、散歩に連れ出していた。冬の間は胴巻きのようなセーターを着せてもらい、大切にされていた。元々の顔つきなのだろうけれども、困ったような表情をいつも浮かべている。お手伝いさんを困らせる習癖がひとつあった。散歩の途中で立ち止まってしまうのである。一度立ち止まると、10分でも20分でも動こうとしない。
「ねえ、散歩しようよ、○○ちゃん」
お手伝いさんが熱心に促すけれども、悠然と動かず、バスが道路を走るのをじっと見つめているのだった。