空を見上げて(平成27年5月21日)

遠くまで空は広がるけれど

空には果てしがどこかにある

私のさびしさはどこまでも広がり

果てしがない

20億年の孤独をうたった詩人がいるけれど

私は20億光年どころではない

果てしなく深いさびしい心を見つめている

人のぬくもりはありがたいけれど

正確無比の運行をする天体の非情さに

むしろなぐさめられる

きょうも西の夕空が青く澄んで

三日月、金星、木星が輝いていた

さびしさの橋を先端まで渡り終えると

その先には反対の世界が開けていた

 

カラッポの言葉(平成27年5月14日)

言葉は不完全なので

いつも人は言い間違えをしている

それだけではない

聞き間違いが絶えることがない

そのせいで

この世は阿鼻叫喚(あびきょうかん)

共感ではないのだよ

 

美しいは醜いの反対

醜いは美しいの反対

こんな調子だから言葉はいつもカラッポだ

 

きみをぼくは好き

と言ったところで

好きは嫌いの反対なのさ

まったくもって意味不明だ

 

それなのに

朝から万事がなんだかうまくすすむ

きょうはふしぎな一日だ

いったいどうなっているのだろう

 

人と人とは互いに依存し

生きがいを互いの中に見つけているせいだ

他人なくして自分の生きがいがあり得るだろうか

自分の上に自分の生きがいを築けない

人はかくも弱い存在

そして弱い者だけが生き残る

花(平成27年5月7日)

花鳥風月は歌わない

こう決めている

制約の中でしか想像はありえないからだ

けれど一度だけ花を歌おうと思った

それは力の試される危険な企てだ

真冬の野辺に咲く誰にも見れられない花

春爛漫の季節に咲くハチだけが知っている小川の

ほとりに咲く花

そんな花の一群れとなって咲き誇りたい

断片と修復(平成27年5月4日)

心のなかにはもう一人

自分が生きていて

ふだんは表に出てこず

たまさか表に出たがる

そんないきものである

そいつはそいつで

時空を超えて生きているのだ

寝静まった町でひとりきりの夜更けになると

そいつが語り始める

聞かされるのはこの自分だ

たいていは聞かされずともわかりきったことだが

ときに思いがけないことを語る

そうして断片に切断されていた

自分がまとまりのある一つの生命体に

還るのだ

 

 

満ち満ちて(平成27年4月19日)

目覚めているのか眠っているのか

わからぬままに土曜日の夜が明けて

カーテンの向こうには

どんよりと空が広がり

朝なのか昼間なのかわからぬままに

日曜日の一日が始まった

ちょっとこわそうな顔の男が

行く手に道行く私を待っており

「〇〇です」と名のられてびっくり

片手にたばこを持った

旧知の人物であった

病院の外出許可をもらって

道を歩いていたのだった

「いいズボンをはいてますね」と

私のかなりよれたズボンをほめてくれた

なんだかとてもうれしくなり

彼がこれから帰っていくのは何十年と暮らす精神病院の一室

自由なはずの自分が彼になぐさめられるとは

元気そうですねと言うと

あほは元気なんですよと冗談が返ってきた

昼間なのか夕方なのかわからぬままに

日暮れようとするなか

ゆっくりと自転車に乗っていると

旧知のご老人から

「自転車の後輪の空気が抜けてます

このまま坂道を昇るのはえらいでっせ」

と声がかかった

タイヤに気がつかないほど私にはとらわれていることが

あったのでった

なんだかその親切がとてもうれしくて

自転車を降りて押して歩き

空気入れでさっそくタイヤを満たした

満たされたのは私の心もであった

 

 

夜桜(平成27年4月11日)

人影が少なくなった夜の公園

寄り添って歩く二つの影

休日もなく遅い時間まで

働くので

昼間の光を浴びた開花を

見ることができないのだった

来年は日当たりのいい時間に

来たいね

いつかこどもが産まれたら

頭に風よけの帽子をかぶらせて

3人でお花見に来たいね

 

月明かり 春の夜寒の 桜かな

蕪村だったら

名月に 春や夜寒の 桜かな

と詠むのだろうか

 

 

 

 

 

雨天決行(平成27年4月5日)

雨の多かった2月と3月

4月もまた雨が多そうな気配

気象が変わってしまったのだ

桜花は満開の日曜なのに雨

花見の予定が雨天中止

公園を歩く人影もまばらに

花にとっては咲くなら今しかない

そうなのだ

花はいつも雨天決行なのである

そして雨天結構なのである