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藤原定家の有名な歌。
見渡せば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋の秋の夕暮
花も咲いていないし、紅葉も
なくなったし。
つまらないなあ。
と定家は歌った。
けれど、私なら、海のそばにいて
秋の夕暮どきの時間を過ごせるなんて
うらやましい。
午後、冷たい風に吹かれて、近くへ用事で
出かけた。
見渡せばコンビニばかり冬の夕暮
半径200メートルの中に、3つ、コンビニが
あるのだった。
見渡せば
何か七文字
冬の夕暮
定家の和歌から俳句へ
いくらでもリメークができそうだ。
用事があって、繁華街へでかけた。
デパートの近くを通ったので、カレンダー売り場を
見てみた。
日曜日始まりのものもあるし、「月」「火」・・・と
漢字で曜日を書いてあるものがたくさんあった。
週休2日の働き方をしているのではないので、
やっぱり週の終りは土曜日だ。
もみじの観光シーズンが終わった。観光地の
このあたりは今年もたくさんの客で賑わった。
歩き方で観光の人らしいとわかることがある。
それは目的地へ向かっていちもくさん、といった
歩き方ではなくて、ぶらぶら歩き、そぞろ歩きを
しているからだ。歩くことを楽しんでいる。
地元民は、早く郵便局へ行かなくては、とか
早くスーパーへ買い物に行かないと、とか
思って、無駄のない歩き方をしている。
そのために、紅葉には目もくれない。
もったいないな。
井上陽水は歌った。
吹雪 吹雪 氷の世界
それなら私は歌おうと思った。
紅葉 紅葉 落ち葉の世界
風がふいて、落ち葉はどこかへ
飛ばされていく。おびただしい群れで
いたのに、最後は一人になって散っていく。
葉を落とした枝先に青空が広がる。
明るい光が木の根元を照らす。
カレンダーを考える季節になった。
壁にはるものと卓上におくものと。
書き込みを考えると、卓上がすぐれている。
月曜始まりのカレンダーがしだいにふえてきた。
昔ながらの日曜始まりのが減ってきた。
好みはやっぱり日曜始まりがいいな。
そして、
SUNと印刷されているのよりも日と印刷されて
いるものがいいな。
JANと印刷されているのよりも1月と
印刷されているものがいいな。
しかし、めったに見なくなった。
古いものへのこだわりなのだろうか?
秋の雨ふる
こんなさびしい夜には
古いアルバムの中に
逃げ込みたい
父母に手をとられ
歩いた夜道を思い出す
秋の雨にうたれて
早くも色づいた葉が散っていく
いさぎよく
何も言わずに
このところの、食品の偽装。
牛肉の脂肪注入していたのだと言う。
そうだったのか。道理で。
もう何年も前から、外食で、たまに
食べる機会のあった、牛肉のステーキが
油こくって食べられないようになった。
年齢とともに、自然に、食べれらなくなったのだ。
そう思っていた。
しかし、このところのニュース。
もしかしたら、脂肪注入された肉ばかりを
食べさせられようとしていたのだとすると、
食べられなくても、無理もない。
細工のされていない牛肉のステーキを
食べに行きたくなった。

今年は10月初め、一度めの開花。そしてちょうど
今、10月下旬に2度目の開花。
といっても、同じ木に2回、花がついたのではない。
先発組と後発組の二組にわかれたわけだ。
元々は汲み取り式便所の時代、便所の外側の
空間に植えられた木だという。
匂い消しの役目をしていたのだった。
シャクヤクのように豪華でもなく、
ユリのように清楚でもなく、
ぼたんのように美しくもない。
その香ゆえに愛好される、
ふしぎな花。
その人は向こうを向いて立っていた。
背広の肩に雪が降り積もっていた。
正確には雪ではない。雪のようなものだった。
雪のようなものは何か。
それはふけだった。
背広の肩に、雪のように白いふけが
ふりつもっていたのだった。
その人物は誰だったか。
元アメリカ大統領、ケネディ氏。
それを見た人はどう思ったのだろうか。
なんと不潔な人物だろう、と思ったかもしれない。
あるいは
背広のふけをとりはらういとまもないほどの
忙しさなのだろう、と思ったかもしれない。
そう、入浴する時間すらまったくない生活。
そうだったのかもしれない。

左側のネコはしっぽを前足にからめて、マフラーを
足に巻いたようなかっこう。
右側のネコはオスで、食欲がいちばん。
まだ親ネコの半分の大きさにもならない。
夜はどこをねぐらにしているのやら。