6歳の魂(平成26年6月15日)

先生に引率されて

小学1年生の集団が

2列になって道を進む

それを見て手を降り続ける

海外からの旅行者

日本で言えば還暦をとうに過ぎた婦人である

かわいいなあ、いいなあ、戻りたいなあ

そんな気持ちが表情にあらわれていた

6歳には年なりの魂がある

考え感じ苦悩する魂がすでにある

そんな魂を内に秘めた一群が

過ぎ去ったあと

くだんの婦人は何を思ったのだろう

ふたたびアイ ビリーブ(平成26年6月13日)

「現代教養文庫」という文庫本がかつてあった。

「私は信ずる」は

昭和32年に初版で、私が持っているのは

昭和43年の27刷りのもの

活字は現在の文庫本より一回り小さい

紙は黄ばみ字は薄れ古色蒼然としている

私以外には

誰からも忘れられた本のひとつである

 

 

 

 

中身はイギリスで1940年に発行された

エッセイ集である。

 

 

ちまたにはやるもの(平成26年6月13日)

やれ終活だ

やれエンディング・ノートだ

やれ生前葬だ

こんな言葉がちまたにはやる

雨あられと

こんな言葉がふってくる

陰気な言葉が世間を闊歩する

これはたまらん

誰か言わないのか

オレは生きるのに忙しいのだ

後は知らんぞ

よろしく頼む

脚の腕力・腕の脚力(平成26年6月13日)

フロイトかく語りき

言い間違いの中に

その人の真実が現われる

ある人が私にかく語りき

腕の脚力が衰えてねえ

あるいは

脚の腕力が衰えてねえ

だったかもしれない

このとき人生の真実は何だろう

純粋にただの言い間違いなのか

こんなことを考えていると

空を流れていく雲と自分がひとつに融け合って

雲を見上げているのか

それとも

雲を見下ろしているのか

どっちだってよくなってくる

 

 

ニーバーの祈り(平成26年6月11日)

月日は百代の過客

芭蕉は奥の細道をこう書き始めた

6月もまた百代の過客の一人である

きょうもまたおのれにできることと

できないこととを見分け

できることには全力でたちむかい

できないことは静かに受け入れる

古人はかく語っている

変えることのできるものについて

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ

変えることのできないものについては

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ

そして

変えることのできるものと変えることのできないものとを

識別する知恵を与えたまえ

まことに6月は知恵の雨がふりそそぎ

老いたる者の上にも

歩く寸前の乳児の上にも

平等にふりそそぎ

われらはその豊饒に育てられるのである

アイ ビリーヴ(平成26年6月8日)

本棚に並んだ本の中には

遠い日に読んだ本、そして今も

捨てられない本が数冊ある。

そのなかの1冊

『私は信ずる』

フォースターという作家のエッセイが

お気に入りだった

そのひとくさり

私がもっとも尊敬する人たちは

まるで彼らが不死の人間であるか、

社会が永遠のものであるかのような風に

行動している。

こうした仮定はいずれも誤りである。

だがもしわれわれが今後も食べ

働き、そして愛しつつ生きていきたいならば

これらの仮定を真実として受け入れなければ

ならない。

季節外れ(平成26年6月8日)

奥山にもみじふみわけ

鳴く鹿の声きくときぞ

秋は悲しき

言わずとしれた小倉百人一首の歌

梅雨とアジサイの6月からは

ほど遠い季節の歌

しかし季節外れもまたよし

常識外れの読み方をしてみたい

きみとぼくふたりは木々の根っこに

足をとられないよう気をつけて

しだいに山の高みへと歩みを進めた

下界の物音が聞えない無音の世界へと

たどりついた

紅葉は散り始めてまるでじゅうたんのよう

ふたりはもみじ葉の上に持参のビニルシートを

広げて寝そべった

木漏れ日がさしてくる

秋っていいな

そのとき鹿の鳴き声が聞えた

こちらへ近づいては去る足音の気配がした

ふたたび無音の世界

きみとぼく

ふたりだけ

秋っていいなあ

 

失われたものよ(平成26年6月7日)

失われたものよ

よみがえれ

6月の夕空はどこまでも青く澄みわたり

きみの瞳にうつっていた

いつまでものぞいていたかったのだが

愚かな者は帰り道に心を奪われてしまった

失われた6月の空の色も

きみの瞳も

失われたものよ

よみがえれ

失われたるもの(平成26年6月7日)

数限りない思い出がわきあがる6月

暮れなずむ空の色に

とけていく時刻におきたこと

ばかりがよみがえる

いつまでも暮れないで

夕焼けがいつまでも続くように

願ったあの日々

失われたるものはなぜかくも美しい