先生に引率されて
小学1年生の集団が
2列になって道を進む
それを見て手を降り続ける
海外からの旅行者
日本で言えば還暦をとうに過ぎた婦人である
かわいいなあ、いいなあ、戻りたいなあ
そんな気持ちが表情にあらわれていた
6歳には年なりの魂がある
考え感じ苦悩する魂がすでにある
そんな魂を内に秘めた一群が
過ぎ去ったあと
くだんの婦人は何を思ったのだろう
先生に引率されて
小学1年生の集団が
2列になって道を進む
それを見て手を降り続ける
海外からの旅行者
日本で言えば還暦をとうに過ぎた婦人である
かわいいなあ、いいなあ、戻りたいなあ
そんな気持ちが表情にあらわれていた
6歳には年なりの魂がある
考え感じ苦悩する魂がすでにある
そんな魂を内に秘めた一群が
過ぎ去ったあと
くだんの婦人は何を思ったのだろう
「現代教養文庫」という文庫本がかつてあった。
「私は信ずる」は
昭和32年に初版で、私が持っているのは
昭和43年の27刷りのもの
活字は現在の文庫本より一回り小さい
紙は黄ばみ字は薄れ古色蒼然としている
私以外には
誰からも忘れられた本のひとつである
中身はイギリスで1940年に発行された
エッセイ集である。
やれ終活だ
やれエンディング・ノートだ
やれ生前葬だ
こんな言葉がちまたにはやる
雨あられと
こんな言葉がふってくる
陰気な言葉が世間を闊歩する
これはたまらん
誰か言わないのか
オレは生きるのに忙しいのだ
後は知らんぞ
よろしく頼む
フロイトかく語りき
言い間違いの中に
その人の真実が現われる
ある人が私にかく語りき
腕の脚力が衰えてねえ
あるいは
脚の腕力が衰えてねえ
だったかもしれない
このとき人生の真実は何だろう
純粋にただの言い間違いなのか
こんなことを考えていると
空を流れていく雲と自分がひとつに融け合って
雲を見上げているのか
それとも
雲を見下ろしているのか
どっちだってよくなってくる
大切にしている持ち物
ほんの数点
ボールペン、皮革のサイフ、
腕時計
もらったものばかり
月日は百代の過客
芭蕉は奥の細道をこう書き始めた
6月もまた百代の過客の一人である
きょうもまたおのれにできることと
できないこととを見分け
できることには全力でたちむかい
できないことは静かに受け入れる
古人はかく語っている
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと変えることのできないものとを
識別する知恵を与えたまえ
まことに6月は知恵の雨がふりそそぎ
老いたる者の上にも
歩く寸前の乳児の上にも
平等にふりそそぎ
われらはその豊饒に育てられるのである
本棚に並んだ本の中には
遠い日に読んだ本、そして今も
捨てられない本が数冊ある。
そのなかの1冊
『私は信ずる』
フォースターという作家のエッセイが
お気に入りだった
そのひとくさり
私がもっとも尊敬する人たちは
まるで彼らが不死の人間であるか、
社会が永遠のものであるかのような風に
行動している。
こうした仮定はいずれも誤りである。
だがもしわれわれが今後も食べ
働き、そして愛しつつ生きていきたいならば
これらの仮定を真実として受け入れなければ
ならない。
奥山にもみじふみわけ
鳴く鹿の声きくときぞ
秋は悲しき
言わずとしれた小倉百人一首の歌
梅雨とアジサイの6月からは
ほど遠い季節の歌
しかし季節外れもまたよし
常識外れの読み方をしてみたい
きみとぼくふたりは木々の根っこに
足をとられないよう気をつけて
しだいに山の高みへと歩みを進めた
下界の物音が聞えない無音の世界へと
たどりついた
紅葉は散り始めてまるでじゅうたんのよう
ふたりはもみじ葉の上に持参のビニルシートを
広げて寝そべった
木漏れ日がさしてくる
秋っていいな
そのとき鹿の鳴き声が聞えた
こちらへ近づいては去る足音の気配がした
ふたたび無音の世界
きみとぼく
ふたりだけ
秋っていいなあ
失われたものよ
よみがえれ
6月の夕空はどこまでも青く澄みわたり
きみの瞳にうつっていた
いつまでものぞいていたかったのだが
愚かな者は帰り道に心を奪われてしまった
失われた6月の空の色も
きみの瞳も
失われたものよ
よみがえれ
数限りない思い出がわきあがる6月
暮れなずむ空の色に
とけていく時刻におきたこと
ばかりがよみがえる
いつまでも暮れないで
夕焼けがいつまでも続くように
願ったあの日々
失われたるものはなぜかくも美しい